昭和52年12月05日 朝の御理解
御理解 第87節
「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」
今の言葉で言うと、胎教のことを教えられたんだろうと思いますね。大切にすると言う事は、健康上のことを大切にする。例えば高いところに手を上げてはならないとか。重いものを持ってはならないとかという風に申しますですね。いわゆる自分もまた周囲の者も、それを大切にすることに協力致します。だからそういう意味は、勿論でしょうけれども。問題はその心の問題、心の持ち方を教えられたんだと思いますね。
日田の堀尾先生の、まぁお言葉じゃないですけれども。本当な事を思い本当な事を語り、本当な事を行ずると言う様な事が、一番間違いのないまぁ胎教と言う事になるのじゃないでしょうか。なかなか本当な事と言う事が難しい。そこで宗教の必要性と言う事になってくる。もう絶対の道であり、宗祖又は教祖がそれによって、我が助かり人が助かり、いわゆる自他共に助かるほどしの、それがいわば御教えであります。ですから御教えに基づいて、私共が心掛けていくと。
教えを基にしていわば、神の氏子がわが胎内におると思うて、大切にして行くと言う事は、その大切にして行くと言う事は、そういうことだと思うんです。昨日は丁度青年の方達の、十周年の記念大会が、祭典そして式典という風に、昨日は一日そういう賑わいで、お広前がいっぱいでした。それに昨日は丁度、四日で神愛会でもございましたから、神愛会は客殿でおかげを頂いた。丁度お話半ばに久留米市長が、あの参拝になっておるというのでちょっと出てまいりました。
で応接間でまぁ色々とまぁ先生のお話を聞かせて頂いたんですが。今度ヨーロッパの旅行それから、ソヴィエトのほう二十日、二十七日にか、かかりでまぁ視察旅行されました。日本からは市長としては、近見先生が一人であり、もうあらゆるまぁ有名人の方達を網羅した一行だったらしいんです。まぁそれぞれに見てくるところも違うし、まぁ感じたところも違うでしょうけれども、近見市長が一番感じられた事は、こりゃどうでも先生、あなたが何時も言われる、その自然界にはね。
もう丸うせずにはおかんと言う働きがある。それに応えて私共が丸うなろう丸うなろうと言う生き方を、もう身に付けなければ、いよいよ人間は惨めになってしまいますよと。もう私は今度の旅行で先生が言われる、あの寒天危地という寒い天危うい地、それをいわば歓びの天喜びの地にしていくのは、もう宗教以外にありません。そういう私共の考え方に反して、もうあのとにかく共産圏に入っての感想と言うのは、もうかくしようかくしようと言う働きだけしかないち言うんです。
もう実にあのまぁ悲しいことだという意味の話を。あれはもうどこへ行っても、その大変なまぁもてなしを受けられたんだそうですけれども。あれはポートランドかどこかでしたでしょうかね。あの晩餐会によばれて、それこそあらゆる肉魚の珍味が一杯出たんだそうですが。それを通訳される人が、あの日本の皆さんにこうやって、お御馳走を出しておるけれども、ここの国民はこの魚一切れでもその肉一切れでも、もうそれこそ配給ですから、あの普通に食べると言う事は出来ません。
こんなに国が豊富だと言う風な事は、思わずに頂いて下さいて、まるきり喉に詰まるような話だったと言う様な事でした。もう本当にとにかくまぁ、近見市長の目に映ったものはとにかくもうとにかく、日本が一番素晴らしいと言う事だったと言うのです。最後にフランスに寄られたんだそうですが。もうそれこそ爛熟しきった。もうどうにもこうにも、言い様のない、それこそ反吐の出るような国柄だと言っておられますね。ちょうど江戸末期のあの巡覧期のような感じだと。
本当に反吐が出るような思いだと。私はだから今度の本当に旅行で、いわゆるこの宗教の有難いと言う事。もうあちらでは、宗教者同士が争っておる。どうでも生きた働きいわば人を助けることの出来れる、生きた働きのある宗教が、本当に必要だと言う事を、まぁ実感して帰ったと。でその事を帰りに、ぜひ私はここのあのご信者さん方に、今度の視察旅行で感じたことを、聞いて頂きたいと思うのですから。
何時か時間を作って頂ければ、いつでも参りますからという風に言うて、帰られましたから。まぁ私は今度の報徳祭には、一つ近見市長の話でも聞こうかと思わせて頂いたような訳でした。いわゆるその生きた宗教の、あの必要性、ほんなら生きた宗教が、例えば胎内の子供にでも影響を及ぼすほどしの、教えというものが、現代の宗教家の中にあるだろうかと。またそれを行じておる人達が、どれだけあるだろうかと、という風に思わせてもらいました。
昨日研修の時に一日のお月次祭を、テレビで見せてもらいました。それをあの見終わり、聞き終わってから、末永勇先生が、あの言っておられましたが。四神様の御教え。言うならあの私が御教えを例にしてお話してるんですが。四神様あの自分の子供と、人の子供がこけた時に、どちらを先に起こしたが、信心でしょうかと言うてお尋ねした時に、四神様がね。人の子を起す気になれば、お前の子供は神が起こしてやるわいと仰ったと。問題はその神が起こしてやるわいと言う、そのおかげが信心のおかげなんです。
神様の働きを、直接に頂くことの出来れる手立てはね。先ずは人の子を起させて頂けるような心の状態。それにそれは現在日本だって、言う事は同じですけれども、ヨーロッパのほうではそれが、特にひどかった。とても人の事の段じゃない。もう自分の事だけで、しかも浅ましいまでに、争い合っているというその状態がです。だから本当の教えというものは。生きた教えそして生きた働きはと言うのはです。
自分のことよりも人のことを祈る、願わせてもらう。そこには神様がほんなら、お前のことは言うならお前の子は、神が起こしてやるわいという、そのおかげの世界を、お互い、体験させてもらい。なるほど。人の事を祈れば思えば、自分の事は願わんでも、自分の子を先に起こそうとしなくても、神様が起してくださると言う、そこにもう心から有難い、なんと神様の働きの、間違いなさを実感する、事が出来るとこう言う。あの四神様のあの御教えが。
今日の御理解の全部の中に、まぁあんな風にどうして四神様の御教えが、こう変化をもったお話になってるだろうかと思うて、感心しましたと言った様な事を、末永先生が言われておりましたが、私も頂き終わってから、成程そうだなぁと思いました。十二月の月に入ったどうぞ今月も一番、年のお仕舞いの月ですから。万事万端に都合良う万事が解決して。言うならば良い年で締めくくらせて頂いて、そして新たな年を迎えるためにも、そこん所の締めくくりを願われる人が多い中に、十二月の月に入りました。
いよいよ報徳祭もございます、御本部参拝もございます。どうぞ万事にお繰り合わせを頂きますようにと、願う幾人かの人の例を持って、その月次祭のときにお話をしたんです。だから本当に報徳祭の月だと、報徳祭の月に入って報徳祭の事が、本気で真剣に願われるなら、もう年末の締めくくりは言うならば、もう大丈夫だと私は申しました。教会を芯にして一生懸命に祈る。また思うておる。
合楽教会大発展の御神願がご成就に、相成りますようにと言う事を、唱え言葉ではなくて、真実それを思うておるならば、報徳祭の事を願わずにはおれないはずだ。それが祈れておるならばです。もう年末はあんたんとこはもう大丈夫ばいと。言うならば、神様がお前のとこの子供は、神が起こしてやるわいという働きが起こってくる、私は体験というものがね、言うならば本当の信心のおかげの世界と言うのは、そういうおかげの世界だと、こう思うんです。
昨日の青年会まぁ終日、青年会の一色で、まぁ塗りつぶされたような感じでございましたが。大会テーマに曙光を目指してと言うテーマの下に、まぁ記念大会を終わらせて頂いた訳です。まぁ私共は全然お祭りに拝まして頂いただけで、もうタッチしませんでしたけれども。文男先生が講師でした。それでもう先生がおられると話し難いと、何時も申しますから、私はもう遠慮してから、あの裏のほうへ下っておりました。それでどんな話をしたじゃろうかと、私が言うたらもうとても、皆がおかげ頂いた。
いわば神愛会の先生方も、ちょうどそれを頂かれてもう本当に、感心しました恐れ入りました。もう一言一言にきちっと締めくくりを付けながら、ご自分の体験を話されましたが、本当に素晴らしい感銘を受けたと言っておられましたから。よっぽど良か話じゃったじゃろうとこう思うんです。だから曙光を目指すと言う事は、そこにおかげを受けておる人の姿というものを目当てに進んでいくと言った様な事も、そうなのですけども。実を言うたらそういう光というものが、そこにもここにもあると言うものではない。
曙光の発見というものは、言うならば教祖様がおっしゃる、難はみかげとおっしゃる。四神様は難あって喜べとおっしゃる、その難儀の向こうに、曙光を感ずると言うものでなからなければ、本当の言うならば宗教的曙光と言う事にはならない。それは私に言わせれば、もう世の中には、難儀というものはない。あるものは神愛だけだと、そういう問題を通して難儀を通して。繰り返し繰り返し体験させて頂いておるうちに、なるほど難儀というものはないんだな。
あん時に苦しかった情けないと思うたけれども、あれは今日この様な力を下さろうとする、徳を下さろうとする、おかげを下さろうとする働きのなんでもなかった。してみると、教祖様は嘘は仰ってない、難はみかげと仰るが、なるほど難はみかげだなと分かった。そこで四神様は、なら難があった時には、むしろ喜べと仰った。それが体験されてくると、そこに難儀の形に見えておる、この底にはぁ神様が今度どういうお徳を下さろうとしておるのであろう。
どういう力を付けて下さろうとしてるのだろうかと、思うただけでも、言うならば、心が勇んでくる。喜びが満ちてくる。だから宗教的言うならば、曙光というならばです。光というならばそういう難儀の向こうに、隠されておるようなその光に合うた時に、初めて、曙光を感じ見た時であるという風に、私は昨日私の挨拶が少し時間がありましたから、話させて頂いた事でした。神様がおかげを下さろうとする、いわばおかげが頂きたい。大きなおかげが頂きたいと、私共が願うからそんなら。
大きな器を持てよ大きな心になれよという働きが必ず起こる。お徳が受けたい力が受けたいと願うから、お徳を受ける為の働きが起こってくる。いうならばお徳というものが、惟は万代までの宝である。あの世にも持って行けこの世にも残しておけると言うのである。そのお徳が宿ると言う事は。私共がそこに難儀を感じた時、もう既に懐妊のおかげを頂いた時である。そしてこの難儀というものがです。どういういうならば神意ご深慮の元にあるかと言う事が分かって来るに従って、その難儀に御礼が言えれる。
そして自分の難儀を言うならば、問題を問題ともしないで、言うならば人を助けてわれ助かれと言う様なです。人が助かることに専念させてもらう。胎内の子供はいよいよ順調に育っていく。それがほんなら月満ちて生まれた時、初めてそれがお徳であり、おかげであると言う事になるのです。ですからその難儀をそこに感じた時に、今胎内に神の氏子が宿ったと思うてという様にです。今お徳の種が宿ったんだと思うて、大事にしていかなければいけません。
ほんなら大事にしていくと言う事は、いよいよ本当な事を分かり、本当な事を語り本当な事を行うていくという信心。それが形に現れた時にはです。自分の事よりも。合楽教会大発展の御神願が成就になる事の為の願い。その御神願成就の為に、なら私もその一分でもその働きの中に加えて頂きたいという熱願を持って、信心を進めて行くと言う様な事になれば。いわば胎内に宿ったいわばお徳の種が、いよいよ育って行く事になりましょう。昨日一昨日から大阪のほうの、若い先生方が二人やってまいりました。
前にもう一年前になります。合楽の信心のまぁ全てと言う様なものを、話を聞くだけではなくて、映写機を持ってきて、玄人の先生がおられましたから、そりゃあのその撮影も技術も、大変まぁ巧者な方達でしたから、それを持って来て下さいました。それで前の晩客殿で頂きまして、昨日は朝の御祈念の御理解の後に、お広間で皆さんに見てもらいました。九州では合楽と久原それから、山口の田布施それから岡山の、元光輝会と言っておりました。ここに何時か団体で参拝して見えた大変御比礼の立つ教会。
それと大阪の泉尾教会の五十年の記念祭の模様を、みんな見せて頂きました。もう本当にあの今度二人が見えましたのは、話を聞きに来たとか、そういう映写機を持ってのという様なことじゃなくて、もう大飛沫を浴びて実は見えておったんです。と言うのは来年の九月に大変規模の大きいのを計画された、いわばまぁ大講演会が持たれると言う事である。それで今先生達の話を聞くと、もう危機に瀕しておる。もういよいよこれから後ろには、一歩でも引かれんと言った様な教団の大事な時に当たってです。
今の教団を言うなら建て直すと言うならばです。もう合楽と泉尾以外にはないとこう言う訳です。そこであちらの青年壮年教師の方達は、今まで泉尾があんまりその、重視されていなかったんだけれども、毎月泉尾の三宅先生のお話を頂く会というのが、毎月起こっておるというくらいですから、もういよいよ真剣なんです。それでそう言う様な事に、例えば反対の分子がありますから、そういう人達はもう来なくても良いと言う。
必ず出席しなければならんと言う事ではないという風にして、通知をしましたところが、毎月毎月全員の先生方が集まられると言う事です。そしてもう泉尾の先生が、部屋に入られると途端に、もうきちっともうその、威儀を正してお話を頂く姿勢が出来た。そこでなら合楽の先生にも来て頂いて、それにまぁ一枝添えて頂きたい。これはもう中近畿の全教師、信者のもう全部の願いですから、どうでも聞き届けて貰わにゃならん。
そのことを教務所長からの話で泉尾の先生に、その事をこうしてあの、まぁ交渉に参ります。どうぞ宜しゅうと言うてお取次ぎを願ったら、あなた方の熱意を持って行かれるなら、もう来はりますよち言わっしゃったげな。ところが来はりませんよと、私があっははは私はもう出らないことが、信条だし実はねこの頃から、あのお誘いを受けた時に、本当言うたら私はもうほかの所に行かんでも、大阪地方だけにはね行きたい。そして私の話をするのじゃない。頂いて帰りたい。
そういうものを一杯持ってましたから、本当に二つ返事でご返事を差し上げたいような気がしたけれども。神様がお許し頂けませんでしたから、あのあぁしてお断りしたんですけども。今度もやっぱりそんなわけには行きません。泉尾の先生が何と仰っても。教務所長が何と言うても。私はもう第一健康もこんな状態ですからと言うて、まぁお断りしましたけれどもそりゃもう、一時間もう本当にそりゃもう本当に涙の流れるような、あの本当涙が流れるようじゃない涙が流れました。
もう教団をこういう若い人達が、こういう一生懸命の思いで思うておられる そしてほんなら今の教団の立て直しを、もう今度は全教の言うなら教務所所長会の時に、皆が反対してどういう問題が起こっても、これだけは断行すると言うのが、今度の合楽を呼んで、そ、講演会を開くと言うのが、そういう腹を作って来ておると言う事です。だからとにかくもう一遍、神様にお願いをしてくださいと。
そして今日私共がご返事を頂けて帰られんことは残念ですけれども、来月は今月の十五日には、教務所長がまたお願いに上がります。だからそれまでの前に、その私に腹を作らせとこうと言うのが、この二人の若い先生方の、合楽に見えたことだったらしいんです。それで私はそのどうしてそげん合楽、合楽て私が言うじゃろうかと言うて、そらもう昨日の映写会を見て、合楽の場合を見せてもらった。
他所にはなるほど豪壮なお広前、そして沢山の信者を擁しておるという教会は、もう日本で指折りの教会ばかりを歩いておられますからね。それを見せて頂きましたけれども、合楽ほどすきっと、はぁこれが本当の金光教だと言うものを、感じさせるようなものが、ほかの教会には感じられなかった。こらまぁ私の我田引水と言うか、わがもの宝に見たからかも知れません。だからあれを見て違わんごと、大阪、近畿地方の先生方が、あの映画を見てから違わん、惚れ込んだんだろうと私は思いました。
なるほど本当にそれは、素晴らしい出来です。私の御結界の奉仕の具合、それから御理解なんかがずっと出ております。ここであの幹部の研修の時のなんかでも、綾部さんのもうそれこそ熱烈な発表が出ております。それから私の言うならば、合楽の皆さんでも全然、まぁ見られたことのない、私の朝のひと時三十分間が、ずうっと映してございます。ですからそう言う様なものを見て、まぁどうでも合楽にと言う事になったのかも知れませんけれども。私は思わせて頂きました。
本当に例えば教団愛にあれだけ燃え立って、ほんなら合楽に見えられて、そして合楽の信心と言う事がです。いわば私が日頃願っておる中に入って広める、合楽示現活動と言う事に、教団全体が参画する様な事にならなければ、御取次ぎ成就信心生活運動にはならないんだと。百年祭を目指して御取次ぎ成就信心生活運動という、言うならば素晴らしいスローガンの下に、教団が前進しかかったんですけれども、本当に流産に終わりはせんだろうかと言った様な感じの状態をです、見聞きする時にね。
これは本当に合楽がお役に立つなら、こりゃ神様もひょっとすると、お許しを頂くかも分からんと思うております。これはほんなら合楽教会だけもう教団全体のこと。それこそ近見市長に言わせるとです。言うならば合楽の言うならば、和賀心時代を世界に敷くと言った様なものが、実感を持って迫ってくるようにです、ヨーロッパの旅を終えて帰ってきてです。生きた宗教が必要と。もう過去の宗教はもう死にものだと。その証拠には宗教同士が争っておるという状態だと。
本当な事を思い本当な事を語り、本当な事を行じれれる宗教にはです。必ずそこに霊験が伴う。それこそ自分の子よりも、人の子を先に起こす気になれば、お前の子は神が起こしてやると。そういう働きが今の教団に必要な時なのだ。ただ自分で一生懸命道を開こうとする、言うならば人知人間の力にはもう限度があるし、もうそれも行き詰ってもうこれから後ろには下られんというところまで来ておるんだと。
これは若先生に色々話された事ですけれども。教団の今のその内部と言うか、なんか一冊のこれはマル秘の近畿地方の、その熱意のある先生方だけで出来たご本かなんからしいんです。まだ私は見てもおりませんけれども。これが言うならば現代の金光教の、まぁ言うなら全てだという、金光教の言うならば、難儀というものがです。ほんならどの生き方を取ったらおかげになるかと。
ほんならば合楽に神習う以外にはないという所まで、話を決めて見えておるというのですね。だからいうならば昨日そう言う様な話を、私の心の中にまぁ宿らせた。そこでこれが来年の九月までに、どの様に育っていくか。これは分かりませんけれども。本当に来年の九月言うならば合楽の信心がです。言うならば金光教のもう一番盛んなと言われる、マンモス教会が幾らもあります、その中近畿の言うなら日本の真ん中に行って。
合楽の信心が語れれる、語らせて頂くと言う事が、これは本当に御神願じゃなかろうかと。そして御神願が成就と言う事は、合楽の信心がそこに生まれると言う事だという風に思うのです。いよいよ信心の帯をしっかり締め直して、これは私自身もそれを感じましたが。昨夜松栄会で、久冨繁雄さんところの長男の国雄さんがお参りをしてまいりまして、今朝方からお夢を頂きました。
それはあの田苗を沢山作っておる。正義先生が見えてこら立派に出来たのち言うて、褒められてこうして見たところが、もう一杯アブラムシが付いておった。あらと思うておるうちに、それが全部松苗に変った。そしたらその松苗にも、アブラムシが一杯付いておるという、そのお知らせとしか思われないお夢を頂いたとこういう。沢山な苗と言い松の苗と言いもうそれこそ、今の合楽に願われておる信心なんだと。それにほんならアブラムシが付いておる。
これは銘々の所でこれは私を始め、例えば合楽の皆さんの方がです。その苗の一本一本であり、その松苗の一本一本であると自覚してね。世界中の者がままになるところの豊作のおかげを頂くために、いよいよ松の信心が世界の、津々浦々にも広がっていくことの為に、この苗が言うならアブラムシの為に、枯死する様な事が無い様なおかげを頂くために。お互いのアブラムシと言うのは、どう言う事であろうかと、これは銘々にそこんところを考えさせて貰うていよいよ。
自分の事よりも教会のことが、本気で願えれば例えば今月に入って、年末のことを願うよりも、報徳祭のことを願わせていただく信心が、そこにあるならばもう年末のことは、神が起こしてやるわいという働きを受けることが出来るだろう。そこの辺の所にです、私共がもう少し。すっきりと言うなら、人の子を先に起こさせて頂けれるような、我情じゃない我欲じゃない、真実信心の心を、そこに打ち出していけれるような信心を目指さなければならない。
わが胎内に言うならば、合楽教会に一つの言うならば、教団を右左にするほどしのものが、言うならば昨日宿った。そんな感じ。だからそれをいよいよ育てて行く事。それには、私だけの信心ではない。沢山の人の後ろ祈念もいる。そしてなら後ろ祈念をなさる皆さんとても、合楽理念に基づいてかく信心が進み、かくおかげを頂き、かく力を頂いておるというものが、後ろになからない限りはね。
やはりそういうおかげを引っ提げての、言うならば、大阪乗り込みと言う事になるんです。だからまぁだ本当に、そればってんそのまぁだ来年の九月と言うんです。それを今から一生懸命に、そういう準備の為にまぁ活動しておられる、その先生方に私は本当に敬服いたしましたが。だからそれに値するだけの信心を、いよいよ極めて行かなければならないな。そしていよいよ素晴らしいものの。
安産のおかげを頂かなければならないな。今これからがねこの九月まで、いうなあ十ヶ月あまりの、月満ちてねそれで生まれ出される時にです。合楽の信心がこういう言うならば、玉のような信心であると言う事をね。どうでもひとつあのまぁ中央に広がれば、全国に広がることでしょう。ですからそういう思いを、今日はさせて頂いておる所へ、今日は八十七節を頂きましたから。まぁそれとこれとを置き換えて聞いて頂いた訳です。
どうぞ。